二、ベトナム作庭記

大きな二万年のカタマリが宙に浮いた。オーライオーライ。その重みに耐えかねてクレーンが腰を浮かせた。ノットオーライ。庭にそのカタマリを運ぶためにひと二人分くらいの高さのブロックを越えなければならなかった。

その大きなカタマリは木が二万年近い年月を経て化石となった木化石で珪化木とも呼ばれる。木の年輪が波打つように刻まれ、どこか岩牡蠣の面影さえある。山が海中に眠っていた時期があったことをそれはずっしりとものがたる。

この記憶のカタマリが宙に浮く前、庭に続くブロックトンネルを使ってこれを運ぶ目論見であった。しかし、そのありあまるゴツゴツさがそれを許さなかった。庭への導入を諦めかけているとき、ユーはこれをどうしても使いたいんじゃなかったのか。現地の人間から勢いのある言葉が飛んできた。それならブロックを一度壊してでも入れたらいい、人手も増やそう。そんなやりとりの末、ブロックを壊すことは忍び、クレーンを導入することになったのだ。

クレーンは腰を浮かせながら歴史のカタマリを宙に持ち上げ、やっとの思いで庭にそれを運び入れた。このカタマリには「イキオイ」で対抗することしか方法がなかった。かつての日本の築城もこんな「イキオイ」の下で進められたのだろうかと少し考えさせられながら、現地のパワーに目が覚める思いをした。

ベトナムで日本庭園をつくるとはどういう行為にあたるのだろうか。現地のひとが本や映画で見知りした日本庭園をそのまま再現することに果たして意味があるのだろうか。問答を繰り返しながら、日本の素材を使わずに日本庭園をつくる。そんな命題をみずからに課した。

ベトナムは日本の庭づくりを支える庭石の名産地であり、亜熱帯気候特有の植物も豊富にそだつ。しかし、植民地時代の名残りか、異国文化が激しく流入した土地では自国のものは海外に輸出して稼ぐものという常識が根づいていた。二万年の歴史をまとったカタマリにしても、自国内で活用することに価値を見出すなど微塵もなかった。

逆をいえば、海外から一流のものを仕入れることに躍起になっており、日本庭園もそのひとつとして待望されたものに他ならなかった。身近にあるものや経年劣化したものを「渋いね」「粋だね」と愛でることができる感覚。これこそ日本の風土と庭文化が一緒にはぐくんできた手元の自然とともにある生活美学であり、海外に紹介するに値するものではないだろうか。

島に見立てた三尊石を組み、それを長石が架橋する。石の間隙に低木や草木を茂らせ、荒々しさのなかに柔らかさを招く。庭の手前から奥へ、背の低いものと高いものを順に並べ、小さなドーム空間を浮かび上がらせながら、奥に地平線をはべらせる。

自然の流れでは一緒にならないものたちが、違いを持ち合わせながらひとつの空間で和える。まさに違和感を携えながら共存する。そんなバランス装置としての日本庭園の発想や技術を用いて、その土地の素材を庭に配していった。

そうして庭のかたちがみえてきたとき、日本庭園は積極的に後退しはじめる。そして、その土地の風土をまとった石や草木のすがた・かたち・いろ・つやが前に躍り出ては、現地人を代弁するようにその土地のエネルギーを庭の内外に放散していくのだ。

庭がかたちを帯びてきたとき、現地人の顔つきも変わる。クレーン車の腰を浮かせてまでカタマリを庭に引き入れた意味が少し分かってきたかのように。庭がバランスされてきたとき、made in Vietnamになる。現地のひとと風土がもつ「イキオイ」を表現するためならば、日本庭園は無色透明になることを厭わないとでも言うかのように。

その土地を翻訳するための装置として機能し、そこにはもう見えない日本庭園をまなざしながら、ボー(牛肉)をしゃぶしゃぶし、フォーを啜った。

追伸
ベトナムで庭をつくる機会を与えてくれた庭師 仲佐修二に感謝を込めて −

案内人 | 猪鼻 一帆
連レ人(編集)| 星ノ鳥通信舎