七、石ノ文法

観光客が雪崩れこむ京都・龍安寺のかたわらに、日本各地の山や庭から石が集まる場所がある。

冬の北西風による乾燥と火事から財をまもるには乾(いぬい)の方角に蔵を立てること。京の地勢によって形づくられた暮らしの型を、都市計画に落としたかのごとく、北山都乾園はかつての都・平安京の北西(乾)に位置し、野の蔵に石財を仰山蓄えている。江戸期より、石への不断の尊敬と愛情によって、庭文化を支え、磨き、育ててきた場所である。

政治・文化の中枢として、情報センターの機能を有していた京都には、各地から多様なヒトやモノや思想が集まり、そこで技術が磨かれ、各方面に匠を輩出してきた。また、地方の素材の多様さを引き取り、さまざまな形に仕立て上げた場所がまた、京都である。こと庭に至っては、三方を山に囲まれた土地の利もはたらき、近郊の山や川から材を調達することもできた。

自然石、加工石、造形石を含め、千差万別の表情をもった石たちが一堂に会する石屋を訪れると、庭文化が花ひらく以前や、その渦中の空気にじかに触れてしまうからか、おもわず出雲で行われた八百万の神の会議とは別に、石神が集う個別の分科会が京都でなされていたのでは、と思考が弾けてしまう。それほどに、ヒトと石が取り交わしてきたものの凄まじさを感じる、質量がのしかかった場所である。

太古より、ヒトは石に「本能」をくすぐられてきた。石を拾い、集め、投げ、積み、囲い、磨き、刺し、切り、熱し、なまものを焼いて食べた。腰掛け、一休を得て、登り、見晴らしを得た。壁石に世界のイメージを描き、写し、身内で共有を図った。生活の折々で石の多面を読み、その都度石に行為を見つけてきたと言いたいところだが、実際は随分と石に招かれ、石に踊らされてきた。動物的本能による石との出会いや発見は、それだけで暮らしの風通しをよくした。

ところが、ヒトは石に「存在」まで立てるようになった。道を封じる巨石に遭遇し、思わず平伏し、しるしを打って、手を合わせた。ナニモノかのスペースをそこに垣間見た。その異質な空間を介して、ここの向こう側があることを察し、世界を案じ、またまた踊らされるように、祭り(祀り)をやった。巨石は畏怖の感覚を与えるのみならず、知能(脳)に電流を流し、その先のナニカを想像させ、信仰させる奥地にまでヒトを誘い込んでいった。

そこからヒトと石の関係性は、かなり深度を持ちはじめたのではないか。花を立てるよりも、句を立てるよりも先に、石を手がかりにして、大なり小なりのイメージや世界を構築せんとするヒトが、石を立てはじめたのではないか。具体的なもの(石)に抽象的なもの(神)を宿らせ、近景(石)に遠景(島)を透かし、世界(実)に別世界(虚)を割り込ませた。なかんずく、石を立てたことは、表現史においても、精神史においても「事件」に相当する出来事であった。

転がる石に腰を下ろしたり、登ったりすることと、重力で寝ている石を起こすことは、紙一重の行為のようでありながら、後者に異質な感じがざわざわとする。不自然というか、意思が立っているというか。「おのずから」より「みずから」が優っているというか。石を立てる行為は、石に意味や文脈を持たせんとするヒトの意向によって支えられている。

立石ばかりか、神仏に灯を捧げるための石灯籠、ケガレを清めるための手水鉢、魔を除ける一対の狛犬等々、なんらかの意味や意思によって象られてきた石の数は枚挙にいとまがないほどである。ヒトが石になにかをこと寄せるように、それを立て、組み合わせ、いよいよ造形にまで踏み切った。これには、石の方もたいそう驚いていることかもしれない。

そういう時代時代に揉まれ、土地土地の中で育まれ、人人に託され、石工によって磨かれた石財の数々が、所狭しに並ぶ都乾園を歩いていると、時間が石に表情を浮かべて語りかけてくる。とりわけ、鎌倉期に制作された石灯籠ともなれば、かなりとろけてしまっている。当時ピンピンにデザインされた石の角が取れ、時間とともに丸みを帯びたすがたで、諸行無常を語るようである。採れたての自然石にしても、石脈とでも呼びたくなるような表面のシワやヒダに、産地に流れていた時間が折り畳まれているようである。

また、現代の機械工の感覚からして、到底手で削り磨かれたとは信じがたい壮大な石造物を眼前にすると、言葉が蒸発して失せてしまう。ある種の強い信仰心のかたまりのようなものが、ただそこに凍りつくように不動な姿でありながら、いまにも沸騰しかねない、そんな出立ちである。場さえ整えば、強い祈りがまた、ゆっくりと語りはじめるのであろう。

それから、石で舟まで模型してしまったものが「舟形石」であるが、出舟(出立)を表す場合は舟首を庭の外に向け、下駄を履かせてやり、門から外へ送り出す。入舟(帰舟)の場合は舟首を内に向ける。このとき、金銀を舟一杯に積んで帰ってくることを願い、その重荷で舟体が沈んでいるような格好で設えてやるのが、これまた一景である。

石ひとつの据え方で、景色が変わり、景気がよくなる。このことを最も信じている石屋は「石の語り部」に他ならない。石(材)ごとに異なる産地や本家・本歌の歴史を辿りながら、石のディテールに落とし込まれた物語を、石に託された「祈り」として伝承する。石の語り部は、山と町(庭)を仲介するだけではなく、時代を超え、場所を越えようとする。語りを以って問いかける、問屋さんなのだ。

庭の中にあって、石はヒトの想像力 <見立て> を搭乗させる台座として、ヒトからなにかを託され、ある種の言語となって、景色に「文脈」をもたらしてきた。石という抽象的な物体に宿された「祈り」を聴くこと、「語り」を引き継ぐこと、そして時代に応じた新たな「祈り」をまた石に託していくこと。

庭師は、石に託された「祈り」や「語り」を引き出す「文法」としての <石の乞はん> を場所ごとに見つけなければならない。そして、機が来れば、「祈り」を新たな石に型取って、庭の中でまた「語り」にしてやらなければならない。

案内人 | 猪鼻 一帆
石語リ | 北山都乾園 北山 利通
連レ人 | 星ノ鳥通信舎(編集)