八、雑竹林記

近ごろは京都の衣笠山近くの現場で、竹垣づくりに勤しんでいるところであるが、十一月も折り返し、立冬も越えた頃だというのに、日中はまだ二十度近くまで気温が上がる日があるものなので、「霜月」とは到底言いがたく、暦と暮らしの歯車が少々狂い気味であるように感じてしまうほどである。

一方で、昼も三時や四時をまわれば、日は刻々と沈み、早々と去ってしまうものなので、暮れのもの寂しさや人恋しさが胸の内で騒がしく、早くも師走の焦燥感が鼓を鳴らしはじめてしまっている。来月には、年神様を迎えるための「門松」の準備がはじまり、ここでもまた竹仕事が控えているわけなので、われわれの仕事ぶりに寄せていえば、今年の十一月は竹(11)を象った「竹月」として引き取ってやるくらいが、幾分しっくりくるわけである。

ちょうど今、制作にあたっている「松明垣」といえば、竹穂や萩穂を用いたものを見かけることの方が多い気もするが、今回は本歌である「割り竹」に<真鍮>を組み合わせて、あたらしい景色を夢創している。竹をまず八等分に割き、その一本一本をさらに三等分に細断し、計二十四本の細竹にする。これをまた集めて、束ねて、真鍮で結い、立子をつくるのだが、これを幾日もかけて百セットほど用意していくため、おのずと「一即多、多即一」の禅世界をくぐりぬけていくことになる。

そんな日々の最中にあるわけなので、竹垣づくりの工法やリズムに同調しつつ、竹にまつわる小さな話を集めて、束ねて、並べた雑竹林(ゾウチクバヤシ)でも遊歩してみようかと思うのである。

自生と植林を含め、竹の生い茂る島国・ニッポンは、それこそ「竹生島」の名にふさわしい気もするが、この島の住民は生活のオリオリに、竹をフシブシと用いてきた「竹の民」としての側面を少なからず持っている。

狩っても萎れぬ竹は、そこいらの草とも違えば、樹木ともまた性質が異なり、強度がある割に軽く、真直である割に弾性まで備える。強さとしなやさかはそう簡単に両備できるものではないことを、誰よりも知っているのはわたしたちであるが、竹はその理想的な植物として、食料から建材、燃料、生活道具、工芸品にいたるまで、よろずのことに用いられてきた。それは、遠い祖先が「凡草衆木の及ぶところにあらず」と記している通りである。

その証拠に日本国土の森林面積のうち、竹林の占める割合が一%にも満たないと聞けば、かなり物足りなく感じるひとが多いのではないだろうか。そうであるならば、山深い奥山にはほとんど竹林は見当たらないが、人里近くの竹林や手元の竹道具などに、列島の住民たちは<大きな存在感>を感じてとってきたということであろう。

庭も、竹の親近感を町へと滲ませてきた共犯にあたるといえるが、庭というもの、本来は身近な素材の寄せ集めと再構成を経て、風景を司ることをやってきたのだから、日本庭園の中に竹が多く持ち込まれてきたことも、ごくごく自然な流れであった。それこそ茶室の躙り口をくぐってしまえば、竹で細工された道具でさらに溢れていることに、すぐに気づくことだと思う。

実用的であって、景色を構成し、なによりそのものの姿が美しくある。庭に希求されてきた「用」と「景」と「美」のトライアングルを正三角形にする上で、竹は申し分のない素材であった。ただ、草木の領域に容易におさまらないほどの多様な植物的特性をもつ竹は、そのトライアングルすらもはみ出て、列島住民の心層部、ひいては日本文化の深層部に地下茎を伸ばしてきたように思う。そのあたりの様相を仮に「柱」と呼んでおくことにしたい。

例えば、竹の茎にあたる稈の内部には、節があり、筒状の空洞がある。そこに「かぐやかしい姫」を見つけたのは、他ならぬ竹取りの爺さんであったわけだが、中空のスペースがなにかの拍子で、ある存在によってさーっと満たされることがある。干されたり、満たされたりを繰り返すこころの波打ち際をかさねあわせたかのように、そういう動向や気配みたいなものを迎え入れるウツワとして、竹筒は生活のさまざまな場面に引用されてきた。幸をもたらす存在は、いつもそこにいるのではなく、出たり入ったりを繰り返すというように。それは、竹の節をひらいて年神を待つ「門松」にもよくよく現れていることである。

出たり入ったりといえば、竹箒にも思い当たる節がある。冬場の剪定が始まり、竹箒で枯葉を掃きながら実感するところであるが、箒はなにかを外に掃き出すと同時に、それによって清められた空間になにかを招き入れるという準備を同時にやっている。なにかが出入りする境界付近で、竹箒は右に左に揺れ動く。

境界といえば、竹垣もじっとはしていない。竹垣は、基本的にはソトに対する防護壁としての性格をもつものであるが、ソトとの関係を完全に遮断するためではなく、マイナスに働くものをうまく躱(かわ)しながら、ソトの世界とつながり続けるためのクッションであろうとする。躱しながら交わすのである。強くてしなやかな竹の性質そのままに、竹垣は凛と佇んでいながら、ウチとソトのあわいを柔らかくほぐしているのである。

草とも木とも分別しがたい竹は、そもそも分類や分断を嫌っているようにさえ思えてしまうものであるが、間(ま)を違えると競いや争いに発展しかねない、さまざまな境界線や葛藤場にあって、あちらとこちらの間を取りもつ「柱」として、列島住民の精神的支柱になってきたように思うのである。

ひとは、もろくて、あやうくて、不安定なこころを、竹に仮住まいさせるように外に取り出してみたりしながら、なんとかウチとソトの平穏を保とうとしてきたのではないだろうか。

夏草や つわものどもが 夢の跡

夏草の生い茂る地に、兵士たちが功名を夢見て戦った跡を感じて涙する芭蕉の歌であるが、同じく日本庭園の竹垣には、その竹を引き抜き、外敵と戦った武士たちの面影が映るのである。その物語の延長線上で今、竹垣を組む者としてこの歌を「本歌取り」することを許されるのであれば、決してつわもの(強者)ばかりか、大抵はかよわきものたちの葛藤の跡であったことに、思いを馳せていたいものである。

竹垣や かよわきものの 夢の跡

まだ若竹のシーズンでもないというのに、猪鼻で少々土を掘り起こし過ぎてしまった感も否めないが、目の前の松明垣づくりにおいて、「心柱」と「真鍮」を掛け合わせた今様の竹垣を築きあげるための契機としたい。

2024年11月20日

案内人 | 猪鼻 一帆
連レ人 | 星ノ鳥通信舎(編集)