十、聴雪居

庭にとって冬はもの寂しい季節である。

木の葉は枯れ落ち、衣を失った裸体の枝はか細く、頼りとするところがない。緑を絶やさぬ常緑樹といえど孤高にあり、不動の石といえど冷たい風を一身に受け止めるのであるから、冬は厳しく冷たいのが常である。

雪は解けて川の水は増し、土中の穴蔵からは新たな生命が産気づく。「殖ゆ」または「増ゆ」と書いて【冬】とするところであり、新魂が籠り増殖した種や蕾がぱんぱんに「張る」ところに【春】が来る。フユはハルの母体さながらなのだ。

だから雪降らぬところには殖ゆるものも増えず、そうなれば心身の張りも今ひとつとなるような気がして、大寒の日に冬眠していた獣が穴から顔を出すような春のあたたかさになるといささか不安になる。そうと思えば、立春の日に不意打ちの大寒波が列島を襲い、早春のお告げに小躍りしていたメジロはたじろいでいた。どうも気候が不安定な時代にあって、四季のリズムに伴奏する庭も安心できない日々が続く。

ただ、不意打ちの大寒波といえど、天から降る雪を歓待しないわけがない。そこかしこに白粉を塗り、景色を一変させる魔術を持つ雪のおとずれは不意打ちであればなお嬉しいものである。わたしも思わず娘を連れて近所の寺庭に出かけたが、内なるコドモがはしゃぎ出し、気づけば天に向けて口を開いてしまっていた。

雪を纏った庭はただ沈黙する。そこは「白の浄土」であり無音の世界がある。無音の中で響く音は静けさの中の寂しさを打破した美しさがあり、耳に周囲の音を交通させることを思案する庭師としては歯が立たぬ理想の音景である。音が音楽をつくるというのが普通の考えかもしれないが、静寂がつくる音がある。そういうことを雪庭では想う。

雪が周囲を静まり返らし、ちらちら、しんしん、ずんずん、こんこん、しとしととさまざまな音階に遊ぶ。冷たい雪の堆積を静かに受け止める石のように、庭に座するわたしもいつの間にかじっと固まり、雪を聴く石になる。

よくよく思えば、目は開閉の操作を自由にできるものだが、耳は日夜開けっ広げである。目を閉じて眠っている時でさえ、微かな音が耳から脳に送られ「夢」を見させているわけである。周囲を眠らせる白銀の世界ではその「夢」をノックする最微弱音に触れるような体験があり、耳という窓から出入りしているものの存在の多さに改めて気づく。

また空に舞う雪は、生まれてこのかた寂しさを抱く人間のか弱さをひらひらと演じるようであり、それゆえの愛おしさを混じり気にしたまま姿を消す。雨風とは異なり、音を立てずに降る雪の静かな景色にまどろみながら、庭をつくる側の者として、庭とともに暮らす側のこころの機微に触れる時間を大切にしなければならないと思った。

しばらくすると庭横の民家から外で遊びたい一心で泣きじゃくるコドモの声が吹雪き、我に帰ることになったが、雪が降ればコドモは外で遊びたいに決まっているのである。景色に見惚れる間もなく、はち切れんばかりの笑顔でそこに飛び込むまでである。雪の化粧をせっせと落とし、白達磨やカマクラにかたちを変えて楽しむ彼らは、冬を寂しいものだけにはさせない「冬の作庭家」である。

コドモたちの喜びがぱんぱんに詰まった結晶の数々は白銀を抜け、もう金春に向かっているようであった。

2025年2月9日(日) 京都某所の雪庭にて

案内人 | 猪鼻 一帆
連レ人 | 星ノ鳥通信舎(編集)