庭をつくりながら口遊む。真行草草、真行草。シンギョウソウソウ、シンギョウソウ。庭を気持ちのよい安養な場にするためのリズムが宿された、この呪文の正体がいつも気になっては仕方がない。
中国から渡来した漢字(真名)を元手にひらがな(仮名)を発明した日本が「書」にちなんで生み出した三拍子。それが真・行・草。その極の一方である「真」をおごそかで明瞭なさまとするならば、もう一方の「草」は伸びやかで自由なさまといえるだろうか。そして、その二極は「行」によって連なっているとも。
ある文字の楷書・行書・草書を一堂に会してみれば分かる。真・行・草は決して上・中・下のような階級や優劣を語るものではない。むしろ、三兄弟のような関係にあり、大抵は長男である「真」のありさまが弟たちを刺激し、真とは似て非なる別様のスタイルがそこに生まれてくる。長男(真)の真面目さが際立てば、次男(行)の無邪気さに面白さが生まれ、三男(草)の素朴な落ち着き具合に光があたるといった感じだろうか。
真・行・草のそれぞれは個別に存在する概念ではなく、むしろ地続きで対等な関係性の中で響き合う。例えば、煌々に固められた<青銅器>に対する土香るもろい<土器>、硬く連なる<瓦>に対するゆるやかに束なる<茅葺>、常緑の<松>に対する悠久の<苔>。それらが一対の関係(真 − 草)を築くことで、それぞれの趣きが照応し合う。
話を文字に帰せば、漢字が所狭しに敷き詰められた漢文を前にすると、間もなく息が詰まりそうになるが、そこに軽やかな平仮名がなびき、程よくカタカナが遊んでいる状態にあると、不思議とおさまりが良くなり、安心するということがある。
極めて日本人特有の感覚の話だが、ここに真・行・草を編み出した「日本の妙」が今も息づいているように思う。文字本来の機能は言うまでもなく「意味の伝達」にある。そこから対象を象形・象徴するように編み出された<漢字>に対して、<平仮名>はその意味を残しつつも、文字そのものを「感性の対象」として美化したような側面がある。
意味よりも「感じ方」に比重をおき、漢字にはない「感じ」を残響させる余地を残しながら、音の響きや具合を豊かにする方向に。それが「真」である漢字に刺激を受けて生まれた「草」の仮名だったように思う。
四角に囲まれた方形の中でタテ・ヨコ・ナナメの線と点によって対称性を保つ<漢字>のかたわらで、<平仮名>は自由で伸びやかな線のはらいによって方形を軽やかに越えていく。その様は垣根で囲われた庭園の中で、その境界を吹き抜ける風やそこを悠々と越えていく鳥虫、その間で揺れる草木のなびきさえ想像させるものがある。
こういう風に考えてみると、日本は理性的なものをあえて感性化することで知性(想像力)にはたらきかける。そこになにかの可能性を見ていたように思う。そもそも海外から次々と文物が押し寄せる島国という運命が、洗練された外なるもの(真)に圧倒されながらも、内なるもの(草)の価値を再発見していくプロセスを要請してきたのかもしれない。
仮に真・行・草を理性・知性・感性に対応させてみれば、いつもこの国は<感性>から<理性>に到達する道を探ってきたような節がある。それこそ「真」の対となる「草」の価値に至るための道として「行」を重んじ、「真行草草、真行草」と丁寧に足取りを進めるかのように。
この延長線上で、自然という理(ことわり)とヒトの感性の共作物としての「庭」を考えるとき、真・行・草は自然のもの・自然に人の手が少し加わったもの・人工的なものと解釈することができる。実際、自然をお手本として行われる庭づくりは「真」にはじまり「草」に及ぶプロセスである。
ただ、自然の素材で構成される「庭」は人工的に造作されながら、時間とともに自然の姿に変化していくものであり、それこそを念頭において庭づくりは行われる。そこでは、常に「真」である自然の理を見失うことなく、そこに創造力としての「草」を生やし、それが時とともに場に馴染むことでまた、自然体としての「真」に至る。そういう流れの中で庭づくりを考えれば、庭師が目指すべき頂は「スーパー草」とでも呼べる境地にあるのかもしれない。
山を歩き続ける修行者は、まさにこの世の理を身体を使って内在化しようとする「行」の中にいる。庭づくりもまた、感性にはたらきかける庭を通じて、その人・その場所の自然体(真理)に到達するための道をつくる「行い」なのかもしれない。
まるで言葉遊びのようだが、真・行・草はいつも足元の道を照らすもの。
真行草々、真行草。真行草々、真行草。
2025年4月25日 京都にて
案内人 | 猪鼻 一帆
連レ人 | 星ノ鳥通信舎(編集)