景色という景色に「歌」を量産してきた。そんな国は世界中を見渡しても日本のほかにない。
この国は歌で北から南まで地図を描くことも、古代から現代までの年表をつくることもできるほど、とにかく歌で溢れ返っている。古歌に詠まれた名所や景勝地を指す「歌枕」はその象徴だ。景色とともに夢想するための寝具として、数々のソングを産み落としてきた。
和歌に詠まれた自然の風景を庭に写した例として、桂離宮や六義園は有名である。歌から庭の景色がつくられ、またその庭で歌が詠まれる。理想の景色や物語の舞台を近くに引き寄せる方法として、歌と庭はずいぶんと結託し、ひとの内側に広がる「情景」を庇護してきたようである。
今春に修復・作庭工事を終えた勝巖院の庭づくりもまた、一本の歌から始まった。
肥前国の鍋島藩にゆかりの寺は、ひとりの姫(直姫)を失ったさびしさから創建されたが、その姫の情報はほとんど残されておらず、その存在を物語るものとしては寺宝「中将姫縁起絵図」のみが手がかりであった。
絵巻に描かれた中将姫(奈良時代)は、自らの頭髪と蓮の糸で曼荼羅を織り上げ、生き身のまま浄土へ迎えられたとされる、女人往生の象徴的なモデルである。右大臣・藤原豊成の娘として生まれるが、なかなかに波瀾万丈の人生を過ごされた。継母のイジメで都を追われ、山奥で忍び暮らした後、再び都に連れ戻される場面でこんな歌を残している。
なかなかに山の奥こそ住みよけれ
草木はひとのさがを言わねば
山の奥は都と異なり、人の性(さが)を持ち出してとやかくいう者がいなかったため、結構住み良かったのだ。勝巖院の再建に際しては、お寺のルーツにあたる直姫の冥福を祈る上で重ねられた「中将姫」が残したこの歌を〈本歌〉とし、新たに歌が編まれた。
みなそこへ選択しむる道行に
草木はさがを去りて色香う
だれもみな「死」を免れることはできないが、浄土へと至る人生の道すがら、それぞれの「選択」を通じて出会う景色は千差万別である。その道に根を下ろし風にゆれる草木は、性別や性格による区別とは無縁なところで(ただ・いま)のかたちをその色や香で伝える。
この歌を作庭前にプロデューサーより託された。〈本歌〉をたよりにこの場に重ねられてきた祈りや語りを聴き、本歌取りした歌を元手にそれらを引き継ぐ新たな景色を立ち上げようということだ。こうして庭づくりは歌から始まった。
わずか三十一字(五七五七七)で構成される和歌は、限られた字数によってすべてを表現しきれないようにルール化されているところが面白い。いろんな解釈が混ざるための「含み」をあらかじめ確保し、決してひとりでは完成しないように「連鎖」を期待しているようなのだ。
その意味で、作庭は託された歌への応答であり、歌を景色化することであった。浄土宗といえば、目的地としての「極楽浄土」とその方便としての「念仏」によく光が当たる。その中で今回新たに編まれた歌には、法然上人が重きをおいた〈選択の過程〉の教えが引き込まれ、それが【道行】(Michi-yuki)としてコンセプトに昇華されていた。
庭の世界でも池泉や石組みによって「極楽浄土」を表現することが〈浄土の庭〉の通例となっているが、歌に導かれるように〈庭〉をあの世とこの世をつなぐ「道」として捉え、景色を構想した。
その上で、奥行きを重視する日本庭園では前例のない〈交差路〉をつくる試みに出た。のし瓦を小端立てにした道と、藍染の敷瓦を四半敷きにした道が曲線を描きながら出会い、また別れ、飛び石が道草を誘う。方丈の間に座すれば、その三様の道なりを一望することができる。「道」そのものが主景の庭である。
春には道を縁取る苔からさまざまな姿形の下草たちが顔をのぞかせ、歩景を飾る。道を覆う紅葉は苔をかばいながら、だれしもに平等に吹き寄せる風に〈他力のやさしさ〉を知らせ、葉の隙間からは日月の光が漏れる。此方と彼方をつなぐプロセスとしての【道行】の上で、四季折々の変化と人折々の選択を尊ぶように。
一蓮托生、それは死後の極楽浄土で同じ蓮の花の上に生まれ変わることを願う心持ちのこと。別れの苦しみから逃れられぬ人の世に寄り添うお寺にあって、この庭がその再会の道筋をやさしく照らすものであることを願う。
また、歌という形をとらずとも、ここを訪れる人々のこころの発露を許す場所として、やさしく熟していくことを願う。
2026年7月31日 猛る夏に苔を心配しながら
作庭 | 猪鼻 一帆(庭師)
歌詠・編集 | 佐伯 圭介(プロデューサー)