ものがたりの踊り場。庭という小さなスペースをそんな風に考え、施主の心のざわめきや土地のそよめきに耳目を寄せる。庭はあくまで庭師のからだを通って、だれかやなにかが創らせるたぐいのものである。そんな感覚がそうさせる。
ウチとソトのあいだに設えられる庭は、ウチ側ともソト側とも呼ベてしまうあたりで、ボーダーレスな賑わいをみせる。ひと、鳥虫、草木、苔石、それに雨雪風なども加われば、関係者はずいぶんと多い。上空・地上・土中まで数えれば、これ極めてパブリックなことに気づく。そんな庭のうつろう「景」に「情」をかさねあわせてしまうのが、ひとであり、ひとが庭に愛おしさを感じる成分もこのあたりに配合されているのだろう。とにもかくにも、庭はひとがウチ側に秘めるものがたりを再生するトリガーが豊富に揃う「見立ての宝庫」であり、想像の集積地だ。
こんな歌がある。我がやどの 君松の木に 降る雪の 行きには行かじ 待ちにし待たむ。万葉の歌人が松に情を寄せて恋人を待った歌。こんな茶会があった。雪の重みに耐えかねてひび割れた竹の花入に、主人は君主とのちぎりの終わりを飾った。千利休と豊臣秀吉の逸話。こんなことを言う町医者に会った。庭をながれる水が段々とこう人間の血流のように見えてくることがある。景色は内側にも拡がっていると思った話。
ひとは幸か不幸か、無意識にこんな具合のことをやってのける。庭に辛抱強く居座るものや、か弱そうに揺れるものの中に自分の境遇をすべらせ、ここではないどこかを旅するような時間や、わたしではないわたしのような空間をみずから創り出してしまうことがある。それはどこか夢に似ている。「ながめる」のルーツが長引かせることにあるように庭はひとそれぞれの物語を載せる舟となり、時空を延長してみせるのだ。
ものがたりの踊り場としての庭。そこで語る「ものがたり」には、現在を起点に過去を語る<回想>と、未来を語る<期待>のふたつの方角がある。そこを指す「踊り場」は、階段の踊り場のように足休めができる<余白>と、文字通り踊りたくなる彩り豊かな<余緑>を兼ね備える。
いのはな夢創園は「ものがたりの踊り場」としての庭を通じて、いまここにうつろうものの愛おしさを伝える。名にある「夢」はドリームのそれではなく、それぞれのものがたりの発露を歓迎するための夢国籍(むこくせき)な庭をつくることに根を伸ばす。
ただ過去を郷愁するだけでも、ただ未来を求めるだけでもない。ただ賑やかなだけでも、ただ静かなだけでもない。対称的な方角をもつもの同士が物騒がしく共存するところに「いまここ」を映す。そんな白昼夢にも似た庭を、寄せては返す心の渚にそっと舟をはべらせるように。
案内人 | 猪鼻 一帆
連レ人(編集)| 星ノ鳥通信舎