四、苔ノムス間デ

雨上がりの露地に晴れ間がおとずれて、風に揺れる何千何万の木々の葉のあいだを光がくぐりぬける。岩肌はしっとり濡れ、苔の上では水が雫顔にあって嬉しげである。

梅雨のまにまに水分補給をする庭は、とても清らかで、青々とした苔と周囲のものたちとのコントラストには、思わず呼吸を深くする。苔に感情の起伏があるとは到底思えないが、雨上がりに葉茎を自由に伸ばすその表情は、腕を天に突き上げて身体を起こすわたしたちの目覚めにも似て、見ている方まで気持ちがよい。隣どうし所狭しに手を組む姿は睦まじく、すこぶる微笑ましい。梅雨前線の北上、苔にとってそれは恵みの到来である。

苔を用いぬ庭はなし、というよりどんな場所にも苔は生すという方が適切なのかもしれない。庭に自然のうつろいや表情をもたらすこと、時空間に奥行きをもたせること、土壌の保水性を高めることなど、庭に苔を引用する理由は指折り数えてあるが、街中や軒先の隙を見せたところから、苔はすぐに現れることをだれもが知っている。アスファルトの割れ目から、コンクリート壁の継ぎ目から、苔は顔を出し、這いつくばって縦横に広がり、街を覆いはじめる。

そこかしこに忍び寄る苔に、たいていの人は見向きもしないほど忙しいが、そこから花なんかが咲いた折には「こんなところから、よくもまあ」などと感嘆の声を漏らし、思わず写真に収める者もいる。その花の根もとにはいつも小さな森がある。草の土台と印す「苔」のつくる森だ。蟻でも天道虫でもいい。ちいさな虫になって苔の茂みを歩けば、そこは山あり谷あり、川流れ、生きものたちの住処に水と木陰をもたらす原初の「森」のすがたがあることを知る。

苔は五億年も遡るオルドビス紀に、海から陸に上がった最初の植物であった。今、陸上で暮らす植物も動物も、わたしたちの祖先もみな、苔がつくった緑地にお邪魔する格好で陸上での生活をはじめたのだった。苔は陸上界における他ならぬ「先住民」であり、海から森へ、緑の足跡をつけながら、生命の道をつくったのだ。だれもなにもいない荒々しい広大な土地に、生きものたちが暮らすことができる環境を静かに用意したのだ。

そればかりか、地中に根を張り、天空に垂直に伸びる通常の植物とは異なり、仮根(かこん)と呼ばれる身体を支える足であちこちに吸着しながら地平を覆ってきた苔は、景色まで豊かにした。青々とした地を以って、周囲のものにイロドリという「存在の花(contrast)」を咲かせてみせた。他者に先回り、他者を立てる苔の立ち振る舞いを前に、彼らを「地球の庭師」と呼ばずにはいられない。庭師が彼らに感化されないはずがない。いまを生きる庭師が苔に細心の注意をはらう姿勢は、地球史の途上における自然のなりゆきというものであろう。苔に右に倣えば、小さな庭に生命の土壌をつくることができ、苔に道を託せば、庭に四季折々の景色を招くことができる。

庭の木々たちは直射日光から苔をまもるように影をつくり、細竹から運ばれて手水鉢に落ちる水は苔を潤す。手を洗うヒトの手は周囲に水を弾き、水鉢に浸かって羽を洗う鳥のからだが水を散らす。太陽と木々と苔と水と、ヒトを含めた動物たちの営みがクロスする地点に、その関係の中心となれる「石」を据える。それが自然に倣いながら、庭師が発見し、用意することができる「間」というものであろう。

ヒトの営みの気配をまとう手水鉢にも、時経れば苔が生し、いずれはそれを縁取るように覆いつくす。そのとき、その空間に、ひとつでもふたつでもない多数の時間が交響する。

案内人 | 猪鼻 一帆
連レ人(編集)| 星ノ鳥通信舎