六、モンゴル作庭記

バナナが凍るほどの極寒だった。ステンレスボトルに用意した水まで凍ってしまう始末だったので、これはもしやと思い、栄養補給用のバナナを工具として握り直した。なんのためらいもなく、杭に向かって振りかざしたが、案の定であった。空気に割れ目を入れる鮮やかな残響と図太い感触を手に残し、杭は下に潜り込んだ。バナナが工具になるとは、こんな時に用意されたであろう例の常套句を使わずにはおられない。そんなバナナな話である。

冬のモンゴル・ウランバートルは最高気温が氷点下十度、夜間は氷点下四十度近くまで冷え込む。すべてのものを冷凍保存しますので、エネルギーと栄養価を蓄えたまま一時お眠りなさい。どこかから聴こえるそんな声に従い、文字通り「冬眠」することが至極自然体なことだと思われた。しかし、約三千キロも離れた海の向こうから庭をつくるためにはるばる着氷した我々は、自らの身を震い立たせ、体温を上げていかなければならなかった。

冬眠できない私たちを味方したのは頭上の空だった。亜寒帯の冬の空は突き抜けるように青く笑っていた。こちらも嬉しくなるほどの青だった。バナナを金槌にするくらいの遊び心をもたらすには十分なほど明るかった。雪氷を纏った白い大地と、まばゆいほどに透き通った青空に身を挟まれると、ここが雲の上の世界であるような気がしなくもなかった。この極地的な環境で、約二週間にわたり某国大使館の庭づくりに励んだ。

海の外の土地で日本人が「日本庭園」をつくる。この行為はいつも庭づくりの根本を問いかける。今回は庭づくりに着手するまでの間に数多くのエラーに見舞われ、その問いがいつにも増して鋭利に畳みかけてきた。まず、COVID-19の蔓延である。これにより、中国を経由した船便での資材の運搬ができなくなった。それから、ロシアのウクライナ侵攻である。中国経由からロシア経由に変更したものの、こちらのルートもあえなく遮断される格好となった。最終的には中国からモンゴルまでの運搬にシベリア鉄道を使う形で難を逃れたが、当初計画から二年遅れての着工となった。

庭をつくることができる世の中とはなんだろう。それは一定以上の安全と安心と豊かさの上にしか成り立たないものなのかもしれない。では、庭をつくることで変わる世の中、そんなものがあるだろうか。衣食住の次の次の次くらいに、必要な人にとってようやく「庭」という選択肢は浮上する。食べるための庭ならまだしも、心のためのような庭となれば…と言葉に詰まる。度重なる中断に、我々も一時停止し立ち往生していた。

モンゴルの気候条件や大使館という厳粛な場の性格、土地の物理的な制約などにより、今回は土と植物を使うことができなかったため、おのずと「石庭」として設計する運びとなった。顔となる石には岐阜の蜷川御影石を用い、輸送上の都合上、事前に三分割にしたものを現地で再度つなぎあわせる「割り戻し」という手法をとった。

いみじくも、この「三分割」したものをつなぎわせるプロセスは、大使館という場所が宿すコード(規律)を我々の身体にモード(リズム)として染み込ませるために一役も二役も買ってくれた。一でも二でもない、三。一だけでは利己的で、二だけでは対立的、三がもたらす緊張感と平衡感。そんな数の哲学じみたことを確認しながら、友好の形(一)をつなぎあわせていくのだった。そして、この作業を二度繰り返し、舟に見立てた二つの長石を砂上に浮かべた。

相変わらず、天を抜くように空は青く、庭づくりを手伝ってくれた現地民も空と同じくよく笑った。雲海のようなこの場所にある、大使館という友好と希望の港に、二隻の舟が並んだ。長い旅路に向けて、ときに言葉以上に言葉となるものを積んで、ゆうに言語を超えてゆけ。そんな汽笛を鳴らす庭になることを願う。

案内人 | 猪鼻 一帆
連レ人(編集)| 星ノ鳥通信舎

※ご紹介した庭の詳細は <こちら> からご覧いただけます